忠誠の騎士
塔上月扉
◆あらすじ
ケーキ屋でバイト中に出会った野ノ宮秋都さん。なぜか気になり、彼を見ていると、ひとり言を言ったり、誰もいないのに誰かと話しているような不思議な彼。
だけど優しい彼に惹かれてゆく。こっそり彼を見ていたら、どこからか口の悪い男の声が聞こえてきた。
私が問い詰めると、彼はしぶしぶ答えた。
「彼は『いる』んです。私と一緒に。そうとしか言いようがないんです」と。
彼? 彼って何? どこにいるの? 姿は見えないのに。二重人格なの? 幽霊なの? それとも守護霊? 妄想?
これが私と二人との出会いだった。
彼と一緒にいる男の正体は一体何なのだろう。
◆目次(収録内容)
忠誠の騎士
第1章 友情のはじまり
第2章 恋心のはじまり
第3章 憎悪のはじまり
第4章 嫉妬のはじまり
第5章 疑惑のはじまり
第6章 決別のはじまり
第7章 忠誠の騎士の物語の終わり
放浪の騎士
◆おおよその文字数
44,000文字
(目次・奥付などを含む)
◆立ち読みコーナー
バイト先のケーキ屋で初めて見た時から、彼が気になっていた。
優しくて穏やかそうな微笑みに強く引きつけられ、無意識のうちに自分の視線が、彼の時にはどこか照れているような笑顔を、別の時には困っているような笑顔を追っていることに気づき、一人で顔を赤らめたりしていた。
彼の名は、野ノ宮秋都(あきと)さん。私と同じバイトとしてケーキ店にやってきた。年齢は私と同じ二十代前半のようだ。
同年代の男性と比べると口数が少なかったが、静かなのが好きなのだろう。
どうしてケーキ屋でバイトを?と聞いてみると、甘いものが好きだから、という答えだった。実際、週に三日のバイト日には、必ずケーキをひとつだけ買って帰っていた。
ただ、持ち帰り用の箱を左手に持ちながら、まるで誰かに話しかけているかのように「どれがいい?」などと、よくひとり言を言っていることだけが変わっていた。
バイト仲間の間では、ひとり言を言う変わった彼、で通っていた。このことについては、彼はよくからかわれたりしていたが「気づかないうちに、ひとり言を言っているみたいなんです」と笑ってのんびりとした口調で答え、気にしていないようだった。まあ、癖なんて誰にでもあるものだ。
秋都さんは、のんびりした雰囲気をしているため、たとえ釣り銭を間違えたとしても、「ああ、ごめんなさい。ぼんやりしていて」と、にっこり笑えば許してもらえる、そんな人だった。
私は、そんな秋都さんと二人で午後のお茶の時間を過ごせたらいいなあ、と何度も空想していた。私のことを「由加里さん」なんて呼んでくれたら、うれしくて顔がとろけてしまうだろう。
けれどケーキ店にいるときは働いているし、二人きりになれる時間などないから、相手にも周りにも気づかれぬように、ちらちらと盗み見るだけだった。
*
その日、私はついていなかったのだと思う。いや、後から考えれば、ついていたのだ。けれど、取り敢えずはついていなかった。
八月の新作ケーキ、レモンシォンケーキを、八月一日にショーケースに入れる直前に落としてしまったのだ。それもこれも、ただつまずいただけの単純な行動が原因だった。床に落ちたのであれば、まだ少しはましだったのかもしれないが、落ちたケーキが散乱したのはショーケースの中だった。ショーケースの中の他のケーキにも白いクリームが飛び散るし、あれは後から考えても本当に酷い状況だった。クビになるのも当然だ。
激昂した店長は、さんざん怒鳴り散らし、怒鳴っているうちに、ますます興奮してきて、かなり長く口汚く私を罵り続けた。そして怒りを自分でも止められないという様子で、私を叩こうと手を振り上げた。
その瞬間、はっ、と店内の人間が息を呑む音が聞こえた。
影が動いた。
私に振り上げられた手を、誰かの手が掴んだ。
