灯台のひと夏
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祖父が晩年過ごしていた無人島にある白い灯台。
すでに灯台の役目は終えて、中は人が暮らせるようになっている。
これは、無人島の灯台でひと夏を過ごしたわたしのひとり言。
灯台
祖父が残してくれた今は無人の灯台。
灯台としては使われておらず、祖父が別荘代わりに一人で暮らしていた。子供の頃、幾度か遊びに行ったことがある。内部は、わずかな家具が置かれただけの簡素な作りだ。
祖父が亡くなった後は行かなくなっていた。
ある年、すべてから逃げ出したくなったわたしは、その灯台でひと夏を過ごした。
無人島

祖父が残してくれた今は無人の灯台。
灯台としては使われておらず 岸から少しだけ離れた海に浮かぶ小さな無人島。そこに小さな白い灯台は立っている。一番近くの小さな村までは車で一時間以上かかる。買い物をするなら、さらに車を走らせる必要がある。
その上、海岸から離れた小島の上に灯台は立っている。船がないとたどりつけない。
そんな不便な場所だから、田舎にありがちな「ご近所さん」が毎日暇つぶしに訪ねてくることもなかった。
本数冊と数枚の着替え、タオルや日用品を入れた小さな鞄に寝袋、日持ちのする食べ物や水を詰め込んだ箱をヨットに載せ、わたしは灯台へ向かった。
灯台の中は少々埃っぽかったが、扉も窓もすべて開け空気を入れ換えると、何とか暮らせそうなことに安心する。人や動物が侵入した形跡もない。
木製の机も椅子もベッドも何とか使えそうだ。もし住めなさそうならヨットで寝るつもりでいたが、何とか住めそうだと判断した。
室内に残されていた箒で家具の埃を払い、ベッドの上に寝袋を広げる。机の上に鞄と荷物を置き、灯台を出た。
小さな無人島をゆっくりと一周する。少し西の空が赤くなりかけていた。だがまだ十分に明るい。ゴツゴツとした黒っぽい岩だらけの足下に気をつけつつ歩いてゆく。
小さな島には誰もいなかった。動物もいない。岸壁に釣り人なども見当たらないことを確認すると、灯台に戻り、扉に鍵をかけて早々に横になった。
すべては明日にしよう。
休暇
とくにやることもない日々。
窓辺に移動させた木の椅子に座る。祖父が残していった古びた椅子だ。少しばかりギシギシ音を立てているが、まだ壊れはしないはず。
小さな窓から海を眺め、飽きたら持ってきた本に目を落とす。けれど目は文字を追うだけで、意味を読み取ろうとはしない。
再び目を海へ向け、遠くを横切る船が見えなくなるまで眺めていると、いつのまにかうたた寝してしまっている。
これでは一日中ほとんど寝て過ごしてしまうと、灯台の外へ出ても特にやることはない。小島を支える岩に打ち寄せる貝殻や小石を拾って時間を潰す。それでも時間はたっぷりと余っている。
気分転換に、灯台に来る時に使った白い帆を張った濃紺のヨットで、島の周りを回ってみたり、海に浮かべたヨットの上で波に揺られてすごしたり。
風と波がゆりかごのようにヨットを揺らしてくれるから、ここでもついついまどろんでしまう。
お腹が空いてきたら、缶詰を開けて食べる。その他に固いチーズ。干した肉。カリカリになった固いパン。塩味のクラッカー。果物の缶詰とハチミツが唯一の甘いおやつだ。
食べたくなったら、食べたい物を食べたい量だけ口にする。
クラッカーにチーズひとかけらの時もあれば、果物の缶詰一切れだけの時もある。固いパンにハチミツを塗って終わらせたり。缶詰のスープを温めるだけだったり。
まさに休日の昼食といった感じの食べ方だ。
食糧は、金属製の大きな四角い缶に毎回しまっている。狭い無人島に鼠がいるとは思えないが、鳥にでも食べられたら、買い出しに行かないとならなくなる。それは面倒だから。
時折、魚も釣ってみたりもするけれど、それほど真剣じゃない。気が向いたらだ。
休暇なのだから、どう過ごしたって良い。
気が向いたことだけをするだけ。
もう少しだけ規則正しい生活をした方が良いのかも、と、あまりに自堕落な生活をためらう気持ちも出てくる。寝る時間と起きる時間、食べる時間だけは決めた方が健康に良いとわかっているのだけれど。
どうしよう……。
うん、だけどせっかくの休暇なのだから、嫌になるまでは気ままに過ごしてみようと思う。
騒がしい
もともと無人島な上に、ここへ来ると誰にも知らせていないから、当然ながら誰も来ない。来る予定もない。
たまに気まぐれで鳥が一羽だけでやってくる。
羽を休めにきたり、岩の上で勝手に遊んで帰ったり。
鳥の種類はあまり知らないけれど、白い大きな鳥はカモメだろうか?
餌はあげない。一度でも餌をやると、この小島も灯台も鳥の巣にされてしまうから。でもたまに一匹でふらりと立ち寄ることぐらいは見ないふりをしてあげよう。
おそらくはカモメだろうと思う白い大きな鳥。小さな灰色っぽい鳥もたまにやって来る。かわいいけれど、何の鳥かはまったくわからない。
けっこうおしゃべりで鳴き声がかわいらしい。
寝ているところを、鳴き声で起こされることもしばしば。鳥の声は小さなさえずりなのに、よく耳に入ってくる。澄んでいるからだろうか。
無人島なのに意外に音が多い。
島の岸壁にぶつかる波の音は一日中聞こえ続けている。
風が強い日には、風が塔にぶつかる音がする。窓も扉も塔自体も風に揺れる。
それから招待してもいないのにやって来て歌う小鳥。
鳥が鳴くのは、ここに餌があると仲間に知らせたり、危険を知らせたり、恋の歌を歌ったりするためだったはず。他の鳥もいない小島にふらりと一羽でやってきて、なぜ鳴いているのか……。ひとり言か鼻歌か知らないが、迷惑なことだ。
無人のはずの小島は、波に風に鳥にと、今日も騒がしい。
だが夜が訪れると、鳥の声は聞こえなくなる。
代わりに月と星が加わる。
夜になると、波の音、風の音に、月の光がゆっくりと降り注ぐ音と、星が瞬く音が混ざっているように感じられる。
耳を澄ますと、砂時計の砂が落ちるような静かな気配。
昼には聞こえない、夜だけの音の気配がたしかにするのだ。
薄明かりが水平線の色を変え始めると、不思議とその音の気配は止まる。
だから夜の音は、確実に鳴っているのだと思う。
灯室
かつて遙か海の彼方までも届くほどに輝いていた灯台の光。
とっくの昔に灯台のレンズも回転器械なども取り外され、住めるように祖父が改築をした塔の上の灯室内は、ガラスの温室のようだ。
この場所が、子供の頃はプラネタリウムのように思ええていた。
夜、灯室に入ると、ガラス越しの四方の窓すべてから星々が見える。まるで宇宙にいるようだと、わくわくして夜に何度も灯室で眠りたいとねだったものだ。
今夜はひさしぶりに、ここで星を眺めながら眠ってみようか。朝はまぶしいだろうけれど。
わたしは硬いベッドから寝袋を取り上げ、灯室へと上がっていく。
たぷり、たぷり
靴も靴下も脱ぎ、岩陰に座って足先を海につける。
海水は最初だけ少しひんやりと感じるが、じきにぬるくなる。
今日の波は穏やかだ。
たぷり、たぷり、と打ち寄せる。
波に揺られて足も揺れる。
目の前に広がる穏やかな波。そして波の音。
不思議といつまでも眺めていられる。聞いていられる。
そうだ。こんな風に過ごしながら、のんびりと生きていきたい。望みはただそれだけなのに。
はかない記憶
暑いけれど、コーヒーを沸かした。
何種類かある燃料のうちの一つを使って、お湯を沸かす。
不思議と暑い日でも、熱いコーヒーやお茶を飲みたくなることがある。
固いパンはとっくに食べきってしまった。最近はクラッカーと乾麺が活躍中だ。普段からヨットに積み込んでいる保存用食料。
床の上で足の裏を滑らせて、乾燥してざらついた床の感触を確かめる。そろそろ箒で掃いた方が良いかもしれない。
灯台の中では裸足で歩いている。涼しいからだ。サンダルは灯台の入り口に置きっぱなしだ。外へ出る時にしか履かない。
テーブルの上に熱いコーヒーが入ったカップを置く。クラッカー二枚も直接テーブルに置く。真っ白のノート。鉛筆と消しゴム。読んでいない本。どれも少しだけ埃をかぶっている。夏休みに放置された宿題のようだ。
灯台へ来てから何もしていない。
熱いコーヒーをひとくち飲み、クラッカーの箸を少しだけ囓って、またコーヒーを飲む。
そのまま、ぼんやりと窓の外、と言っても海と空しか見えないが……に目を漂わせる。一度だけ鳥が遠くを横切っていくのが見えた。それ以外は何一つ景色が変わらないまま時間が過ぎてゆく。
コーヒーがいつのまにかぬるくなっていた。じんわりと全身を覆っている汗。まるで周りの暑さに、コーヒーの熱さが溶け込んでしまったかのように感じる。
これからわたしは、どうなっていくのだろう。
目の前にはこんなにも美しい海と空の景色が、どこまでも広がっているというのに、この先の明るい未来を思い描くことができない。せめて楽しかった過去を思い出そうとしても、うまく思い出せない。あの時何か楽しいことがあったな、と友の笑みがぼんやりと一瞬浮かぶだけだ。
未来も過去も遠い景色を見ているような、遠い日々を思い出そうとしているような……ぼやけていて……わからない。
少なくとも楽しかった過去は確実に自分が体験したはずなのに、どこか夢の中のようにぼんやりとして他人事に感じる。
思い出したい時に、楽しいことを鮮明に思い出すことができたら、自分を励ませられるのに。
人の記憶とは、どれほど頼りなく、はかないものなのだろう。
虫
昼食代わりに缶詰の果物を食べていたら、テーブルの上に一ミリぐらいの小さな虫が一匹いた。最初は黒いゴミかと思ったが、ゆっくりと動いていたので虫に間違いないとわかる。
めずらしい。無人島だからか、灯台ではほとんど虫を見かけない。特に大きな虫は皆無だ。こんな小さな虫が海を渡ってくるのだろうか。それともヨットに乗ってついてきたのだろうか。
人を噛んだり指したりはしないだろうけれど。
でも小さな虫でも肌につけば痒くなる。
だから……。
ぷちっ。
何も警戒せずテーブルの上を移動している虫らしき黒い点を、親指で押しつぶした。
幸いにも指先には感触というほどのものは感じなかった。
死骸には見えない黒い二ミリぐらいの黒い塊がテーブルの上に残る。押しつぶしたから一回り大きくなったらしい。それでも、つまみあげるには小さすぎる。
布巾で拭き取って、窓の外で振って下に落とした。
もう見えなくなる。
これで虫も土に還るだろう。
あの虫は何もしていなかった。
たぶん食べ物の臭いに引かれて近づいてきただけだろう。
だが人は虫を嫌う。人の血を吸ったり攻撃してくる虫には容赦をしない。
人には直接攻撃してこなくても、食べ物に近づく虫も、人に病原菌をもたらすと嫌悪されている。人は何も考えずに殺してしまう。
一瞬で人に殺された虫は哀れだろうか?
虫は人を見ているのか。
見えているのか。
虫の小さな目から見た人は高層ビルどころか山、いや空に広がる雲ほども大きいのではないだろうか?
一瞬で人の指先に押しつぶされる。虫。
ただ人が不快という理由で。
かわいそうと子供は言う。けれどそうだろうか?
一瞬で死んでしまうのは、幸せではないだろうか。
ひょとしたら死んだことに、虫自身すら気づいていないかもしれない。
友に別れは告げられないけれど、病気や長い苦痛の中で死を待つよりは、あっけない死も悪くない気がするのだが。
入り江
ヨットを係留してあるのは、わずかに岩が三日月のように入り込んだ岩陰。
そこから白い石で作られた石段を半円を描くように上ってゆくと、島で一番高い場所に建っている白い灯台の前に出る。落ち着いた青色の半球屋根。同じ色のラインが白い灯台に引かれている。
白い柱に青色の半球をした灯台は、いかにも灯台らしくて良い。
満潮になっても海面は無人島のかなり下だ。
子供の頃、何度か夏休みに灯台へ遊びに来たことがある。その時は祖父がいたから、嵐が来ても恐くはなかった。
その祖父にヨットの扱いを教えてもらったのだ。
難しくて嫌だと言ったら、ヨットの操縦を覚えておけば、竜を見つけた時にヨットで追いかけることができるぞ、と祖父は笑いながら言った。
え? 竜がいるの? と驚いて聞き返したら、祖父は大昔この辺りには竜が人と暮らしていたという伝説があると教えてくれた。
騒がしくなって竜は海の彼方へ行ってしまったが、それでも時折、早朝に竜の姿を見たものがいると村の古老が言っていたぞ。
国中の人の大半が気に掛けることもない田舎。住んでいる人々以外は名前すら知らない古くからある海辺の村。そんな村人からも存在を忘れられた灯台。もうここには船が来ることもない。
ずっと存在している。静かにずっとたたずんでいる。それなのに国の大半の人々には知られていない場所。この先も、わざわざ来ようと思いつく者は、皆無だろう。
そう言われると、ほとんど人が住んでいないこの地方になら、まだ不思議な生き物がいるような気がしてきた。
まだ竜が飛んでくるのではないかと期待して、毎朝灯台の小さな窓から一生懸命水平線の彼方まで眺めていた日々。
懐かしい時代。
心弾むわくわくとした感情は、どこへ行ってしまったのだろう。
何が不満というわけでもなく、ただこのまま生き続けていくのがつらく感じてしかたがない。
贅沢だとわかっている。戦争や事故、事件に巻き込まれたわけでもない。手足を失ったわけでも、子供や家族を失ったわけでもない。
それでも……。
やらなければならないと押しつけられることが多過ぎて、ただ気楽に生きるのが難しい。
未知のこと……したくないこと……苦手なこと……嫌なこと……つらいこと……。
この世の中は、理不尽なことが突然降りかかってくる。なぜ自分がこんな災難に遭わなければならないのか。納得できないことが多過ぎる。
多くの不安を震えながら耐えて、何事もなかったかのようなふりをして過ごしていく日々が……嫌になってしまった。
寺にある大きな鐘を鳴らした時に、耳の奥にしばらく余韻が残り続けているように、傷つけられた心にも、傷の余韻が残り続けている。ひとつひとつは小さなことだけれど、完全に消え去ることがなく心の奥底にどんよりと留まり続けているのだ。
すべてを諦めて淡々と生きていくしかないのか。
祖父は……祖母は母は父は……こんな思いを抱いたことがあるのだろうか。どうやって耐えて生きていたのか。
それともこんなことを感じたりしない、生きていくことに適応した強く常に前向きな人だったのだろうか。
祖父母は泣き言など言わず、毎日を過ごしていた。わたしが訪ねていくと、いつもうれしそうに笑顔で迎えてくれた。
長く生きてつらいことはなかったですか? 毎日は楽しかったですか? わたしが邪魔ではなかったですか? わたしは良い孫でしたか?
もう問えない相手への質問ばかりが思い浮かぶ。
生きることは……楽しかったですか?
答えを待ち続けても、海が波の音を返してくれるのみだ。
目の前の海は穏やかな波で、この島を撫で続けている。繰り返される波の音。
たとえつらさを耐えていたのだとしても、二人とも今はもうやすらかに眠っている。どんな思いを抱えていたとしても、人は寿命が来ればこの世から消えてしまう。生前関わりのあった人々を少しだけ悲しくさせて、本人は永遠に消滅してしまった。
もう二度と会うことも、問いかけることもできない。
今もどこかにいる気がしているのに、いくら探しても、どこにもいない。
何気なく、白くそびえる灯台を見上げた。
子供の頃に見たのと変わらぬ姿で、灯台は立ち続けている。人よりも少しばかり寿命が長い。
けれど、この古びた灯台もいつかは崩れてしまうだろう。
しかし灯台は感情を持っていないから、苦しむことも悲しむこともないのかもしれない。悲しいと思うのは灯台を見る人だけで……。
いや、その人すらも、もはや自分以外の人は、この灯台の存在すら忘れ去っている。
誰にも知られることなく、少しずつ灯台は滅びてゆく……人と同じように。
人もまた気づかぬほど少しずつ死へと向かう。永遠の安らぎへと。
悩み続けている今から、永遠の安らぎが待つその日へ。
そう考えたら、ほんの少しだけ心の奥が軽く感じた。目に見えないほど少しずつ、わたしはつらさから遠ざかっているのだと。
花
灯台の海側は潮風に晒されているせいか植物は少ないが、陸側には背の低い植物が生えている。といっても地面に貼り付くようにして生えている植物ばかりだが。
そのうちのいくつかは、わたしが子供の頃、灯台に遊びに来た時に種を蒔いて育てようとした植物たちの子孫だ。
黄色の小さな花が、ぽつん、ぽつん、と点在している。
いろんな花をいっぱい咲かせてあげる!
祖父にそう言ったっけ。
楽しみだな、と祖父はにこやかに答えてくれた。灯台の端に雨水を貯める貯水槽を作り、二人で花に水をやったものだ。その貯水槽がまだ残っていて、人は飲めないが掃除や植物への水やりには十分使える。
大きな石とコンクリで作られた貯水槽。一人で作るには力がいる。今から思うと、当時の祖父は自分が考えていたほど年老いてはいなかったと思う。
朝顔と向日葵は消えてしまったらしい。その他にも子供だったわたしは時期も考えずに、自分が好きな花の種を持ってきて蒔いていたから、芽を出さずに終えたものも多かったはずだ。コスモスやラナンキュラス、百合など。
潮風に強いものだけが生き残ったのだろう。
あるいは運が良い種は鳥の餌になり、どこかへ運ばれていって、その地で花を咲かせたかもしれない。
この無人島に残されたのは、雑草と黄色の小さな花だけだと思っていたが、じっくりと見てみると、虫が近寄らなくなる草も残っている。虫が匂いを嫌うハーブ類も意外に丈夫なようだ。主に灯台の側に生えている。
それで虫がほとんど灯台の中へ入り込んでいなかったのかもしれない。
ひそかに灯台を守ってくれていた植物たちに、小さな感謝として雨水をかけた。
命ある限り、美しい姿を見せてくれるようにと祈りながら。
スイカ
白い灯台の日陰にスイカがなっているのが見えた。といっても特徴的な模様でスイカだとわかっただけで、掌よりも小さい楕円形をしている。
ひょっとして自分が子供の時に蒔いた種の子孫だろうか? それとも祖父が育てていたのか?
どちらにせよ、よく育ったものだ、と感心する。
たった一つだけなっているスイカの実をもぎナイフで切ってみると、中はほとんど白く、中央部分がほんのわずかだけ赤みがかっていた。
残念。食べられなかったか。
種を取り出して、再び土の上に蒔いておいた。
ペンキ
実は船にペンキを一缶だけ持ってきていた。白色のペンキ。
木製の扉や窓枠や家具などに塗られているペンキが剥がれていたら、滞在中に塗って劣化を少しでも遅らせようと考えていたからだ。
だが予想外に灯台は傷んでいなかったから、今日まで放っていた。だが、暇を持て余して船の荷物を調べていたら、箱の奥に入っていたペンキと刷毛を見て思い出した。
せっかく持ってきたのだからと、主に屋外に面している木の塗装にペンキを塗ることにする。
一缶使い切るまで、つぎつぎと塗ってゆく。劣化しているところは何度も塗り重ねる。雨戸には特に念入りに塗っておいた。少しでも長持ちするすように。
予想ではすぐにペンキを使い切るはずだったが、思った以上に長持ちしている。灯台の壁にも塗ってやる。
顔にも体にも汗が流れ落ち続けている。
流れる汗が目に入らないように手の甲で拭う。
ああ、終わった!
やっと空になったペンキ缶に刷毛を入れて石の上に置く。仰向けに草に寝転ぶ。はぁ、はぁ、と口を開けて何度も息を吸い込む。自分がかなり集中していたのだなと気づかされた。
こんなに一生懸命熱中するなんて、ひさしぶりだ。
疲れてしまった。
暑い中、何をやっているんだか。
だが……悪い気分ではなかった。
汗でべっとりと貼り付いた服が気持ち悪い。起き上がり、皮膚に貼り付く服を剥がすようにすべて脱ぎ、入り江へと降りてゆく。
浅瀬がある岩からゆっくりと海に足を入れ、脱いだ服を片手に持ったまま海に沈んだ。
そのまま目を瞑り、頭の上まで海水に浸る。
暑く焼けた髪や肌から、熱が取れてゆく。
ああ、気持ち良い。このまま人魚になれそうだ。
海水で軽くゆすいだ服は軽く絞って岩の上に放り投げる。後で干せばすぐに乾くだろう。
顔を海面に出したまま、ぷかり、ぷかりと体を浮かべる。息を吸い込むとわずかに体は海へと沈む。息を吐くと体はわずかに海面へと浮かび上がる。
このまま波の音を聞きながら、いつまでも穏やかな波に揺られていたい。
そうして気がついたら人魚になっていたら、世界中のきれいな海を泳ぎなら過ごせるのに。
古い地図
灯台の中に放置されていた木箱の中身を確かめようと、まずは一箱を灯台の外へ引っ張り出す。何が出てくるかわからないため、室内では開けない。
だが幸いなことに、そんな警戒するほど物は入っていなかった。虫や動物の死体などでもなかった。
中には雑多なガラクタが入っていた。錆びついた金槌。木製の古びた定規。短い紐の切れ端が何本も。ペンチやドライバー。どちらも錆びついている。小さな平たい黒い小石。表面は磨かれたようにすべすべしている。薄青い氷砂糖のようなガラス片。いわゆるシーグラスとかビーチグラスと言われるものだ。どこのかわからない鍵。短い赤鉛筆。くすんだガラス瓶が数本。中身はどれも空っぽ。
埃まみれの双眼鏡を取り出す時に、大きさの折りたたまれた紙が箱の隅に立てられているのを見つけた。
引っ張り出して広げてみた。箱よりも一回り大きい。
地図だ。
随分と古そうだ。薄い上に紙自体が劣化しているように感じる。紙の折れ目がいつ裂けてもおかしくなさそうだ。
箱の上にそっと置いて、覗き込む。
この辺り一帯の地図だ。
地図の大部分が陸地で隅の方が海。灯台は地図の左下にある。ここから先は海だから余計なスペースは減らしたというところか。
地図は薄い茶色とほとんど色が消えた水色だ。文字や道は黒インクで印刷されているが全体的に薄れ擦れており、かなり読みにくい。
相当に古い。新しく作られた道路が記載されていないし、今は名前も変わっている町が村と書かれている。一番近くの村から灯台へは、細い線が引かれているのみ。道幅すら表現されていない。
当時から使われていなかったのか。
他に得る情報も特に見つからない。ただのかなり古い地図だ。
折りたたもうと二つ折りにして気がついた。裏に何か書いてある。字が下手な子供のような文字。鉛筆で書いたのか薄くなっていて読みにくい。顔を近づけ一文字ずつ解読する。
十年後の十八歳の八月十日に灯台で会うこと!
十年後に十八歳ということは、この文を書いたのは十歳の子供ということになる。
誰が書いたのだろう。
少なくともわたしではない。書いた記憶もないし、子供の頃に誰かと灯台で会った覚えもない。
まさか祖父が子供の頃に書いた……いや、まさかね。いくらなんでも古すぎる。
とはいうものの地図の紙の古さからすると、あり得なくもない。
もしそうだとしたら、祖父は子供の頃に、この灯台で夏を過ごしたことがあることになる。するとこの灯台は祖父の両親のどちらかのものだったのだろうか?
いや、そんなはずはない。
わたしが子供の頃、この島はずっとおじいちゃんのものなのと祖父に聞いたことがある。その時に祖父は、この島はゆっくり過ごすために手に入れた、と言っていたような。だから祖父が夏の別荘として買ったのだと思っていた。
十歳の少年が十年後に会う約束をする相手は、どんな相手だったのだろう。夏期休暇に出会った恋人……いや、十歳は幼すぎるか。祖母……とは働いている時に病院で知り合ったと言っていたから違うはず。やはり友達だろうか? ここで出会って友達になったのかな。随分と気が合ったのだろう。
当時はこの辺りに住んでいた人もいたのかもしれない。そういえばここへ来る森の中には何件か小さな崩れた廃屋が残っている。今は辺り一帯完全な無人だが。
たいたいにおいて子供の頃の約束などは忘れてしまって守られないものだが、祖父は十年後に相手と会えたのだろうか……。
だが会えなかったとしても、その後、祖父はこの場所にいることが多かったのだから……いつか再会できたかもしれないな。
それともその後二度と、会うことはなかったのだろうか……。
すべてを見て知っているであろう灯台を見上げるが、何も教えてはくれない。祖父とその相手との会話を聞いていたはずの島の大地も無言のままだ。
代わりに島に打ち寄せる波の静かな音だけが、当時と変わらぬであろう音を繰り返している。
もう二度と二人の約束がどうなったのかを、誰かが知ることはないのだろう。
まさか祖父がこの灯台を手に入れた理由は……。
いや、まさかね。
四つ折りにした紙を再び箱の中へ戻した。
それにしても祖父が十歳の頃とは……。
あたり前だが常にわたしよりも年上であった祖父。その祖父が今の自分よりも年下の子供だったという状況が想像できない。
祖父母や両親は年上であるのが当然だった。けっして自分が彼らよりも年上になることはない。それなのに……。
死んでしまった祖父母は、もうそれ以上、年を取ることはない。
だからわたしがこのまま生きているだけで、祖父母の年齢に追いつく。そして追い越すこともあり得る。
死者の時は止まる。それは当たり前のことなのに……生きているだけで自分の方が年上になるという事実が、なんだか不思議なことに感じる。
今の自分と同じ年の頃、どうやって何を考えて生きていたのか。つらいことはなかったのか。
ざわりと胸の奥で、抑えていた不安が目を覚ました。
不安はこんな無人島にまで追いかけてきた。何がわたしを不安な気持ちにさせているのだろう。ここには何もわたしを傷つけるものは存在していないのに。
常に心の奥に居座る漠然とした不安感。
もし自分と同じこの曖昧な悩みを抱えていたとしたら、祖父は、いや、祖父たち大人たちは、どうやって乗り越えたのかを今、聞いてみたい。
どうすれば、何をすれば、前向きに楽しく生きられるようになるのか。
それを聞いておくべきだった。
時間が解決するとか、前を向いて生きていくとか、楽しいことを探してゆくとか、自分で自分を励ますとか……いろいろ聞いたけれど、試す気力すらない。
いや、唯一時間だけは勝手に過ぎていっている……か。
この鬱々とした気分は、はれるのだろうか。
それとも皆、心の中にこの鬱々とした気持ちを抱えながらも、折り合いを付けて、笑って平気なふりをして過ごしているのだろうか。
それだけでも知りたい。
自分だけではないなら……少しは耐えられる気がする。
少しだけは。
でも、できることなら逃げたい。だが、どこへ?
夕立
雨が降っているのに音で気づいた。
物憂い気分のまま立ち上がり数歩窓に近づくと、すぐに窓から雨の匂いが入ってくるのを感じた。
島へ傘は持ってきていない。
読んでいた本を机の上に伏せ、窓を閉める。錆の出ている蝶番が少し固い。油はあっただろうか。次に来る時は新しいのと取り替えた方が良さそうだ。
雨の降る灯台の外へ出た。
全身で降り注ぐ雨を受け止める。少しばかり痛い。だが体の熱を冷ましてゆく。気持ちの良い雨だ。
空を見渡す。すでに右側の空は明るい。
夕立か。
ならばじきに雨は止むだろう。そろそろ夏も終わる合図。
鳥の姿もあまり見かけなくなったな。
そういえば……鳥たちはどこで死んでいるのだろう。
たくさん見かけた鳥たち。
夏が終われば、どこかへ飛んでいってしまう。
けれど一年中、見かける鳥もいる。鳥たちだって死んでいるはずなのに、その亡骸を見かけることはない。土を掘って埋める者もいないのに。
どこかで人知れず土に帰っているのだろうか。
猫や狐や野犬などが食べてしまっているのだろうか。あるいは蟻や虫たちが解体しているのだろうか。
もし……わたしがこの灯台で人知れず死を迎えてしまったら……腐敗してちゃんと土に土に還れるだろうか。
それも……悪くない気がしてきた。
そう、たとえば船が流されてしまったとしたら……。
一応、島から岸までは泳げない距離ではないけれど、岸から村までは何時間も歩かなければならない。
わたしは、そこまでして生き延びたいだろうか?
もうどうでもいいと、横たわっているだろうか。でも飢えたり苦しむのは嫌だ。
願わくば、海を眺めながら、いつのまにかうたた寝しているうちに死ぬことができたら、どんなにか良いだろう。
けれどまだその時ではなく、目は覚めてしまうのだ。
そして胸の奥の淀みは死んでも消滅しても消え去ってもいない……。
貝
白い貝を拾った。掌ほどの平たい貝。波打っている。海の波のようだ。
めずらしい。
まるで波が置き忘れていったかのよう。
しかも欠けることなく形を保っている。
洗えば、小物入れにでもなりそうだ。
拾ったきれいな小石でも入れてみようか。
この小島を灯台ごと貝の中に閉じ込めてしまえたら良いのに。そうしたら、街へ帰っても……小さな灯台を眺めながら、自分がその中にいるのだと想像できる。
この島の岩と砂で、小さな箱庭を作ってみようか。
そんなとりとめのないことを考えながら、白い貝を海水でゆすいで砂を落とし、灯台へ持ち帰った。窓辺において乾かしておく。
ノスタルジー

夏が終わったら、わたしは街へ帰らなければならない。
この灯台で冬を過ごすのは無理だろう。雪は降らないが寒すぎる。海も荒れるから、ヨットでは無理だ。祖父も冬だけは町へ戻っていた。
ずっと……世界が終わったことにも気づかぬまま、この世間から隔絶されたような灯台で過ごせたら良いのに。
けれど世界は続き、休みが終わったら自分も、この隠れ家から元いた場所へ戻らなければならない。
また以前と同じ日々が再開され続いてゆく。
祖父がこの灯台に、一人きりで過ごしていた気持ちがわかる気がした。
ここは……隔絶された誰も近寄れない一人きりの無人島。誰も頼れる者はいない。何かあっても助けは、どこからも来ない。
孤独であり、いつまでも一人でいられる。
けれど同時に自分を世間からも他人からも守ってくれている。海という壁で。
それがとても居心地が良くて……安心できるのだ。
祖父も普段は誰一人として来ないこの灯台で、自分を何かから守り続けていたのかもしれない。
あるいは……十年後に会う約束の相手を待ち続けていたのかも、と少しだけ思いかけて、それ以上考えるのを止めた。それは祖父だけの秘密なのだから。
きっと祖父も、夏が終わっても町へは帰りたくなかったのだろうな、と感じる。
わたしは、ここへ来た時と何も変わっていない。
あいかわらず胸の奥には、はっきりとしない暗い思いが留まっている。
それでも……ここで過ごした休暇の日々……ただ一人きり。波と風の音、時々鳥の鳴き声。嫌なことは何一つしない。それだけなのに、少しだけ心の淀みが薄れてきた気がする。
ほんの少しだけだけれど。
たった一歩だけまた動き出せそうな、そんな気がする。
とりあえず帰ろう。
そして、来年の夏もまた……ここへ来てみようと思う。
誰も来ない自分だけの居場所へ。
終