
絵と散文 9~
ここは絵と散文を載せています。本や旅をテーマにしたものが多めです。

09
「コーヒーとチーズケーキ
~フォロワーさんとの出会い~」
その頃、個人的なことや理不尽なことが仕事で重なり気分が沈んでいた自分はSNSにふと、ぼやきをもらしてしまった。
最近気分がすぐれない。何を食べてもおいしくない。
するとSNSで繋がっているFさんから、そんな時はうまいコーヒーを飲んでみてください。チーズケーキも旨い店ですよ、との一文と共に、雰囲気の良さそうなカフェのアドレスが張られた。
二週間以上たったある休日に、ふとそのことを思い出した自分は、憂鬱な気分を真冬の重いコートのように着込んだまま、重い体を引きずりながら、そのカフェへ訪れた。
そのカフェは、裏通りの蔦の絡まる隠れ家的な雰囲気の静かなお店だった。
客はカウンターの端に男性が一人。
三つあるテーブルに女性が一人。どちらも本を読んでいる。
音楽もなし。
静かで、ちょうど良いな。
使い込まれて艶のあるカウンターの先客から二つほど離れた椅子に座り、コーヒーを注文する。
カウンターの向こうで、無口な店主によって丁寧にコーヒーが作られてゆく。その動きを何とはなしにぼんやりと眺めながら、しばらく待っていると、熱々のコーヒーが真っ白なカップに入れられて目の前に置かれた。
砂糖やミルクを入れて、自分の好みのおいしさにする気力もなく、少しだけ冷めるのをまってから、コーヒーを口にした。
黒い液体が、喉を通り、胸の中心を下りてゆくのを感じる。
苦く、熱い味がする。
ああ、おいしい。
何週間ぶりだろう。こうして外で食べるのは。
何だか味覚を感じるのが、ひどくひさしぶりな感覚だ。
思い出した味覚をもう少し味わいたくて、熱いコーヒーを続けて二、三口、喉に流し込む。
ああ、おいしさを忘れていた。
ようやく落ち着き、白いコーヒーカップを皿の上に戻した。
肘をついてカウンターに目を落とし、木目を見るともなく目に入れていると、目の前にチーズケーキが載った皿が滑るように現れた。
驚いて目を上げると、皿からマスターの手が離れてゆくところだった。
注文してないけど……隣の人の分と間違えたのかと、カウンターに座っている男に目を向ける。
隣の男は読んでいた本から目を上げ、ちらりとこちらを見て静かな声で言った。
「ここはチーズケーキも旨いですよ」
かすかに口の端を上げ、目をわずかに細めて、一瞬だけ目を合わすと再び本に目を落とした。
「あ……」
見知らぬ人からの思わぬ行動に戸惑っていると、カウンターの向こうで作業をしていたマスターがこちらを見ていた。
「どうぞ、召し上がってください」
え? このチーズケーキはマスターからなのかな。売れ残ったチーズケーキをおまけでくれたとか? 後からお金を請求される?
まあ、チーズケーキなら押しつけられたとしても、それほど高くはないから払えるだろう。
「あ、はい。ありがとうございます」
ケーキの添えられた小さなフォークでチーズケーキの角をすくい取り、口に入れる。
うん。ほのかに甘い。
苦みが欲しくなって、再びコーヒーを飲む。
どうしても思い出せなかった感情が、ふわっとしたコーヒーの香りで呼び起こされてくる。その感情は、口に押し込んだチーズケーキの一口の甘さから染み出してきたように感じた。
そう。ひどく懐かしい忘れていた感情。日常の些細な楽しみを楽しいと感じること。
いつのまにか失っていた楽しむという気持ちが、コーヒーとチーズケーキを交互に一口含むごとに、体の中から甦ってくるのを感じる。
チーズケーキを食べ終え、コーヒーを飲み干した頃には、何だか気分が軽くなっていた。いや、気分だけではない。重かったはずの体も心も何故だか、軽くすっきりとしている。
家に帰ったら、ひさしぶりに本でも読んでみるかな。読みかけの本があったっけ。きっと埃をかぶっているだろうな。
お金を払おうと注文紙を探して、テーブルの上に視線をさまよわせる。
それらしき紙はテーブルの上に見つからない。二席離れた場所に座っている男の前にも紙らしきものは見当たらない。
男の前には白い皿に載ったコーヒーカップが一つだけ。文庫本を読んでいる。本屋でかけてもらえる薄茶色のカバーで隠れて書名はわからない。
自分の視線に気づいたのか、本から顔を上げた男とまた目が合った。中背で体格が良い。
男が、わずかに微笑んだ気がした。
あ、どうも、というように顎を少しだけ引いて会釈を返す。知り合い、ではないよな? この店の常連客かな。
そういえば、さっきチーズケーキが旨いと教えてくれたのは、マスターではなくてこの客だったな。
フォロワーのFさんも、この店のチーズケーキが旨いと教えてくれたんだよな。有名なのだろうか。
店内を見回すが、こぢんまりとして控えめな店は、大人気チーズケーキ店で客が押し寄せてくる雰囲気ではない。
知る人ぞ知るという感じなのかな?
マスターに精算をお願いすると、コーヒー一杯程度の金額しか請求されなかった。
「あの……チーズケーキ代が入ってないんじゃ?」
そう遠慮がちに口にすると、マスターは気にした様子もなく言った。
「ああ、今日のチーズケーキはサービスです」
サービス……チーズケーキのサービス・デーだったのか? いや、喫茶店でそんなことあるのか?
「はぁ……ありがとうございます」
お金を払い終わり、店を出る。
うーん、得をしたのか、何なのか。すっきりしないような。
まあ、とりあえず気分は軽くなったから、散歩でもしながら帰るとしよう。
帰ったら、Fさんにお礼とチーズケーキを食べた報告をしないとな。
良いコーヒー店を紹介してくださって、ありがとうございます。今日行ってきました。コーヒーもチーズケーキも旨かったです、と。
何故か運良くケーキがサービスしてもらえる日でした、と。
不思議なことがありますよね……と。
ふと足を止める。
いや、あるわけがない。そんなにも偶然が重なるはずがない。
あの客……まさか、Fさんだったのか?
でも自分が今日あの喫茶店へ行くなんて、わからないはずだ。自分ですら、さっき行ってみようと思いついたから行っただけだし。
……。
まさか、ずっと待っていてくれたのか? 自分を励ますためだけに? 毎日?
それとも自分が来たら、チーズケーキを奢るようにマスターに頼んでおいた?
でも……来た客が自分だと、わかるはずがない。だって会ったことはないのだから。写真だって公開していないし。性別だってたぶん同性だろうと思っているだけで根拠はない……ひょっとしてテーブルの方に座っていた女性の方とか?
それともマスターの方か? でも喫茶店をやっているなんて書いていなかったしなぁ。
やはりさっきの客の方か?
いや、まさか……ね。
踵を返して、今出てきたばかりの喫茶店へ早足で戻った。
◇
男らしい控えめな優しさ。
華やかでも、わかりやすい、目立つものではないけれど、相手がわからないように、さりげなく手助けしてくれる。
これが、そんな男らしい優しさを持っているFさんとの出会いでした。
終
(追記)
この後、ラーメンを食べにいったり、謎を解くために各地の古書店を巡ったり、在野の郷土史家や歴史研究家たちから話を聞いたり、バイクで温泉地を訪ねたりと、いろいろ彼とは行動を共にするのですが、それはまた後のお話です。